When in Rome, do as the Romans do.
- アカプルコやシワタネホやイスタパや 、あるいはカンクンやカリブの島々 、それらはメキシコの提供する幻想であり 「点 」である 。でもそれらの点と点のあいだを 「線 」でたどろうとするとき 、我々は否応なしに現実に直面することになる 。そしてそれらの幻想と現実との差異は 、この国においてはかなり──ある場合においては致命的に──大きなものである 。
(『辺境・近境』村上春樹著 )
これは私が遥か昔に読んだエッセイの一節で、このときメキシコへ旅行する予測すらなかったことを覚えている。(今となれば具体的例としては、点とはオールインクルーシブで、線は予告なき断水…ではなかろうか。。)
ともあれメキシコでの生活は線から点となり、挨拶をしに行くと「いつメキシコに帰ってくるのか?」という優しい社交辞令で返してくれるメキシコ人さんたちの人懐っこさに未だ驚かせられますが、私自身はもう訪れる事はなかろうと思います。来てから帰るまでずっと高山病が酷く慣れることもなかったため、、まぁベラクルスとか海岸沿いの街なら住めるかもしれんとは思いますが。
アメリカと南米の通過地であるメキシコは、アメリカの生活習慣を取り入れつつメキシコの食文化を大事にし、そして南米寄りの治安環境に属し、一見して秩序やルールのない呪術的な雰囲気がある土地だと思う。そのことが正しいとか劣っているとか、そういう事ではなく、ただその環境を私は客観的に傍観していた。
メキシコという国はやや混沌として不確実さに溢れていて、自分でコントロールしようと躍起になるより、こんなものか〜とあたかも他人事のように問題を扱う方がイライラせずに事が進むように思う。無駄に反応しないというか、上手くスルーしていくというか。
反対に、感情的になったら問題は決して解決しない、むしろこじれる。
この姿勢は日本社会で強力な抑止力を持つ「まぁまぁ」の空気に少し似ていて、そういう意味ではメキシコと日本は共通点もあるなぁと改めて感じる。(一方でフランスなどは要求が通るまでの徹底的なストやディベートが激しいので、全く日本と違うと思いますが、、)
そんな意味で、諦めたら手放したら上手く行くということも多かったです。これって何だか恋愛関係みたいだけど。
相手のある問題は自分の思いを変えるしか何も変わらない。相手を変えようと、あなたは間違っていると自分の意見を述べるのは非難や攻撃にすぎない。そういうピリピリした空気は少し前の土下座風潮やクレーマーという形で日本や韓国にあったのだけど、この根本は信仰心の欠如かもなぁ、それから完璧主義や自己主義に麻痺した正義感ゆえかなとも思う。
でもメキシコでは全くそういうのは通用しなくって、計画通りに行かないのが当たり前だから、諦めたりドタキャンしたり何回もリスケOKといった、いい加減(良い加減) さをフレキシブルに使える性格に自分も変わったよなぁと思う。逆にこういう環境では完璧主義だと打たれ弱いと思う。これがよく言われる、郷に入れば郷に従えの所以なのだろうかね。
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